「○○っこ」てカワイイ言い方だ (井手)

2006年夏、宮城県へ研修に伺った際に知った宮城の方言。

 

我が北九州の言葉とは段違いな印象に深く感銘を受けました。

 

この年も関東の梅雨明けは遅く、8月の声を聞いてから。

 

梅雨が明ければ日本全国どこへ行っても暑い、暑い。

 

今年はコロナの影響でどこにも行けませんが、早く終息してくれるのを望みます。

 

この年は、早稲田のハンカチ王子が優勝し、今を時めく大リーガー

 

ヤンキースの田中マー君が準優勝に終わった。

 

あれから14年、もうそんなになるのか。

 

今回はスピンオフバージョンで、つまり、セミナー部分は全部カットして、

 

それ以外にスポットを当て再構成しています。

 

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2006年まだありました,勉強になる話が (井手)

 

彼には葬儀経験はありませんが、弊社でシステム作りに尽力してくれました。

 

その頃、葬祭ディレクター試験の問題作りなどで疑問に思ったことを綴っています。

 

真宗の本願寺派と大谷派が、どこで別れたのか。

 

概論にも書いてないことを調べて書いているようです。

 

葬儀社様は、意外と知らないのでは?

 

読めば、為になると思います。

 

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2006年 記憶に残るエッセイ ④ (井手)

 

「馬の骨」のぼやき (井手 一男)

 

 

 

…ダチョウの子育て…

 

ダチョウの母親は、自分が産んだ卵だけではなく、

 

他のメスが産んだ卵も一緒に抱いて育てるというのをご存知ですか。

 

麗しき母性本能ですよねえ。

 

さらには卵を温めて育てるだけじゃなく、

 

他のメスのヒナまで自分の集団に加えて育てることも珍しくないとか。

 

そのためダチョウの母親は、2050羽のヒナを連れた大集団だそうです。

 

子育てがホントに大変でしょう。(大家族だあ)

 

不思議な行動ですが、ボランティア精神に富んでいると思ったら大間違い。

 

実はとても利己的な発想によるものらしいのです。

 

卵を温める時は、自分の産んだ卵だけはしっかりと見分けて、

 

集団の中心に置くのだそうです。

 

そうすることで、他の動物から卵が狙われた際に・・・外側の卵から食べられますので、

 

一番安全な場所を確保するとか。

 

(確か恐竜にも似たような行動をとるのがいましたね)

 

 

 

考えてみたらダチョウにボランティア精神なんてあるわけもなく(ダチョウに失礼)、

 

かといってダチョウの母親が酷薄なわけでもありません。

 

全て遺伝子のなせる業です。

 

生物は皆、遺伝子によって盲目的にプログラムされたロボットなのです。

 

遺伝子は、全てのマスター・プログラマーですから、

 

自らや種が生き延びることを最優先にプログラムを組んでいます。

 

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2006年 記憶に残るエッセイ ➂ (井手)

 

葬儀司会を終えて

 

 

 

まだまだバリバリで司会に伺っていた頃です。

 

現場が大好きでしたね。

 

大きなお葬式が多くて司会者は引っ張りだこでした。

 

これをチョイスしたのは、浄土宗の引導を覚えておいた方がいいと思ったからです。

 

今でも為になりますね。

 

この時は、阿弥陀経を1巻上げられました。

 

浄土宗としてはやや珍しかったですね。

 

では。

 

 

 

246(ニー・ヨン・ロク)と言えば、お洒落な青山通り・・・

 

と思われるでしょうが、ところがどっこいしょ。

 

246は、千代田区から神奈川県を経由して静岡県沼津市に至る一般国道で、

 

流通のための道路と言うよりは、主に通勤利用が多い生活密着型の道路。

 

渋谷の青山通りはそのごく一部ということだったのだ。

 

(知らなかったよ)

 

246沿いの葬祭ホールだから、行って下さい」

 

別の現場を抱えていた石川から電話で、どうしても断りたくないというのだ。

 

「ダブルブッキング? モテモテだねえ」

 

Iは泣きべそをかいている。

 

「スケジュール空いてますよね」

 

「・・・まあ、何とか」

 

ここはIに貸しを作っておける。

 

(恩を売っとくか・・・ムフフと悪魔の声)

 

 

 

Iから246と言われたら、青山通りしか浮かばなかったぜ。

 

246沿いなら大丈夫と判断した私が甘かった。

 

(相手が1枚上手だったのさ)

 

現場を聞いてビックリ新春スペシャル。

 

246246でも、神奈川県の外れじゃないかー!(失礼)

 

通夜・葬儀と2日間通うのはとても無理。

 

仕方なく、ビジネスホテルを予約した。(参ったね)

 

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コロナでもお葬式で「お別れ」出来るのでは? (井手)

 

ウイルスの実態と合わない対策 過剰な恐怖広げた専門家

 

文中に

 

「葬儀の問題も同じです。息をしないご遺体からウイルスは排出されません。皮膚に残っていたとしてもお清めをするか体に触れなければいい。お別れをしたいという気持ちを大切にした葬儀はできるはずなのです」

 

という記事があり、実は私も同じ意見に近いものですから、紹介させてください。

 

 以下、711日 朝日デジタルより抜粋

  

新型コロナウイルスへの対応をめぐり、「専門家」のあり方が問われている。「正しく恐れる」ために欠かせない情報をきちんと示さず、社会や経済の混乱につながっているという。どういうことなのか。国立感染症研究所(感染研)や米疾病対策センター(CDC)などで研究してきたウイルス学者、西村秀一さんに聞いた。

 

 

 ――日本社会の新型コロナへの対応を批判していますね。

 

 「実態と合わない対応が続いていることを危惧しています。亡くなった方を遺族にも会わせずに火葬したり、学校で毎日机やボールを消毒したり、おかしなことだらけです。私は『もうやめよう』と提案しています。コロナ対策の委員をしている宮城県の会議でも訴えました」

 

 ――どこが問題ですか?

 

 「まず強調したいのは、病院と一般社会は分けて考えるべきだという点です。いまはスーパーでも病院で使っているフェースシールドを着けていますね。しかし、ウイルスが現に存在して厳しい感染管理が必要な病院と一般社会では、ウイルスに遭遇する確率が全然違う。厚生労働省が6月に実施した抗体検査で、東京の保有率は010%でした。そこから推測すれば、街中そこかしこでウイルスに遭うようなことはありません」

 

 ――東京では1200人を超える感染者が出ています。ウイルスが街中にいないと言えますか。

 

 「東京全域を一律に考えるべきではありません。いま感染者が出ている多くは、限られた地域の特定の場所の関連です。市中感染があっても人口1千数百万人に比べればそれでもまだ数は少なく、ウイルスが街に蔓延(まんえん)しているわけじゃない。社会での感染対策として、リスクの高いところからつぶしていくことは可能です」

 

 ――なぜ実態と合わない対策が続いているのでしょう。

 

 「突き詰めて考えると、専門家の責任が大きいのです。例えば、接触感染のリスクが強調され『手で触れる』ことへの恐怖が広まっていますが、ウイルスと細菌の違いが軽視されています。細菌は条件が整えば自己増殖して一般環境で長く残りますが、ウイルスは感染者の体外に出て寄生する細胞が無くなると、少し時間が経てば活性を失う。本当はウイルスは細菌より接触感染のリスクがずっと低いのです。なんでもアルコール消毒をする必要はありません」

 

 ――それでも、「プラスチック面で数日生き残る」という専門家の話を聞くと、やはり心配です。

 

 「確かにプラスチック面では比較的長く生き残るという論文はありますが、それは、面に載せた1万個弱のウイルスが最後の1個まで死ぬのに、34日かかったというものです。ただ、そこにある生のデータを細かく見ると、生きているウイルスは最初の1時間でほぼ10分の1に減っています。ウイルスの初期量が少なければ、もっと短い時間で感染リスクはなくなるのです。私たちは、まるで街中のドアノブに生きたウイルスがうようよいるかのようなイメージを刷り込まれている感じですが、それを証明した人はいません。百歩譲って存在していたとしても、数はそんなに多くないはずです。ですから、この論文の結論をそのまま一般社会に当てはめることは適当ではありません。学術論文を批判的に検証するのが、科学者の基本の『き』。それをもとにした議論が必要です。しかし、このところ『専門家』は論文の前提条件や仮定も飛ばして、そこにある数字だけを右から左へ流すばかりです。それでも世間の人たちは『専門家の言うことだから』と信じて、何でも怖がってしまいます」

 

 

オンラインでインタビューを受ける国立病院機構仙台医療センターの西村秀一・ウイルスセンター長=2020620日、仙台市宮城野区、小玉重隆撮影

 

 ――リスクが低いと聞いても、不安に感じてしまいます。

 

 「世間の人がそんな不安を抱くのは、専門家がきちんとリスクを評価して、社会にそれを伝えていないことに原因があります。リスク評価の根幹は、具体的な確率を検討することです。例えば、感染者のせきでウイルス1万個が飛んだと仮定しても、多くは空気の流れに乗って散らばり、机などに落下するのは1センチ四方あたり数個。では、それが手に付く数は? 鼻に入る確率は? 時間経過でもウイルスは減る。こう突き詰めるのがリスク評価なのです」

 

 「『可能性がある』と語って人々に対策を求める専門家がメディアで散見されますが、キャスターや記者は『それなら感染する確率はどれぐらい?』と問わなきゃいけない。専門家に課されているのはリスク評価です。『可能性はあります』なんて誰だって言える。専門家なら、リスクがあるかないかという定性的な話をするのでなく、どれくらいあるか定量的に評価しなければなりません」

 

 ――ただ少しでもリスクがあるのなら、対策を取った方が安心ではないでしょうか。

 

 「『安全率』という考え方があります。現存するリスクの範囲で対策を取ると漏れる恐れがあるので、バッファーを設けるようにする。安全率を取るのはいいですが、どこまで取るかが問題です」

 

 「ゼロリスクを求めれば、『念のため』と対策もどんどん大きくなる。しかし、その下で数多くの弊害が出ています。人と人の関わりが無くなったり、差別してしまったり。職を失い、ウイルスでなく、その対策で命を落とす社会的弱者もいる。スーパーで買ったポテトチップの袋までアルコールで拭くのは、ウイルス学者の私には笑っちゃうような話だけど、笑えない。そんな恐れを広げた専門家に怒りが湧きます」

 

 「葬儀の問題も同じです。息をしないご遺体からウイルスは排出されません。皮膚に残っていたとしてもお清めをするか体に触れなければいい。お別れをしたいという気持ちを大切にした葬儀はできるはずなのです」

 

以下省略

 

ウイルス学者、西村秀一先生曰く。

「葬儀の問題も同じです。息をしないご遺体からウイルスは排出されません。皮膚に残っていたとしてもお清めをするか体に触れなければいい。お別れをしたいという気持ちを大切にした葬儀はできるはずなのです」

 

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2006年 記憶に残るエッセイ ②(井手)

 

命日だ、お勤めしなきゃ (井手 一男)

 

 

 

この年になっても父の命日はソワソワしている自分がいます。

 

小さい頃の衝撃は心に刻まれるものなんでしょうね。

 

昔も今も、変わらずです。

 

では。

 

 

 

 

 

1月15日・・・今日は父の命日です。

 

毎年の事ながら、父が亡くなった35年前の光景が今でも忘れられません。

 

というより、この日は私の中では、ある意味「父の日」みたいなものなのです。

 

カレンダーとしての「父の日」よりも、父の命日が「父の日」、

 

母の命日が「母の日」、そんな感覚・・・皆さんはどうですか?

 

 

 

脳溢血で知人に担がれて帰宅した父を見たときの動揺。

 

これは「ただごとではない」と直感し、救急車を呼ぶため電話を掛けようと

 

10円玉を握り締めて近くの店まで走った時の、耳元の風を切る音と自分の息。

 

その日の内にポックリと亡くなる父の命の虚しさ。

 

少年時代に心臓を鷲掴みにされた衝撃は、古い傷跡として残されたままです。

 

ヤクザな父と二人暮しだった私は当時小学5年生。

 

私の中には、私の意思とは関係なく、私の人生をリセットした時期があって、

 

そのキッカケとなる父の死は生涯のエポックメーキングです。

 

それまでの「園田一男」の人生から、養子先の「井手一男」の人生へとレールを跨ぎ

 

ガラの悪い北九州から、穏やかな佐賀へと1人移り住むことになったのだから。

 

(北九州の人ゴメンね)

 

 

 

教室の後方に貼り出された、忘れ物グラフが私だけ常にダントツで、

 

どの学年の通知表にも「忘れ物が多い」と書かれていたものです。

 

宿題なんかやったことがないし、水筒なんて端から持ってないので

 

校内で禁止されている生水を堂々と飲んでいました。

 

 

 

ノミ行為で、数日父が捕まった時は親戚の家から学校へ通いました。

 

急な出来事で、あわてて荷繕いをしたものだから、算数と国語の教科書を紛失し・・・

 

後日、自宅にあったが・・・しかし、紛失したと思い込み、只でさえ忘れ物王の我が身、

 

それが言い出せないので毎日忘れた理由を考えるのが日課でした。

 

(これが私の宿題みたいなものです)

 

 

 

朝教室へ入ると、同じ班の班長が

 

(当時は班の連帯責任でした・・・班長は大体女の子)

 

「園田君、国語と算数の教科書持ってきた?」と必ず聞くのです。

 

数日は「ゴメン、ホントごめん、今日は忘れた」とか

 

「あれ、入れたはずなのになあ・・・」とかで誤魔化しも効きますが、

 

さすがに一週間続くとなるとこれは苦しい。

 

学校をズル休みしたくなるほどのプレッシャーでした。

 

そこで思いついた名案は、子供心にも計算高く、こちらから先手を打つというもの。

 

「おはよう、ごめん今日は算数の教科書忘れた。でも国語は今日ないよね!

 

と班長に堂々と宣言するのです。(昨日までとキャラも変わっています)

 

 

 

この日の事だけは、妙にはっきりと記憶しています。

 

班長は、FS子さんでした。

 

絶望していました。(アハハ)

 

(眉目秀麗な彼女は今どうしているのでしょうか)

 

後日、大人になってから彼女には笑い話で真相を話してあります。

 

もっとも、本人はケロッと忘れていたようですが・・・。

 

 

 

男二人の気ままな暮らしぶりは、時代もあったのでしょうが凄まじく、

 

子供たちに思い出話をしては昔を懐かしんでいます。

 

 

 

その頃の私の1日は、朝起きてまずお湯を沸かす。

 

当時はマッチでガスコンロに火を点けますので、大人になった気分でした。

 

一度失敗して、眉毛と前髪を焦がしたことがあります。

 

発売されたばかりのチャルメラというインスタントラーメンが朝食。

 

しかも、鍋で作るのが面倒くさいので、袋から取り出した麺をそのまま丼に入れ、

 

お湯を注いだ後は皿で蓋をしていました。(子供ながらの生活の智恵です)

 

それから数年後にカップヌードルが世に出るのですが、

 

(浅間山荘事件の自衛隊の食事でブレークします)

 

あの時・・・特許を取っていれば・・・(アホ1)

 

余談ですがカップヌードルが世に出たとき、思春期の私は「ヌード」という言葉に

 

敏感で、暫くは「カップル・ヌード」と誤読していました。(アホ2)

 

 

 

それから玄関の土間掃除と父の靴磨き。

 

ヤクザな人の共通点は2つ。

 

手に荷物を持ちたがらないのと、靴だけは絶対ピカピカ。

 

これだけは譲れません。

 

 

 

実は、私は幼稚園にも通っていません。(学歴がないのだ・・・アホ3)

 

入ることは、入ったらしいのですが、父と離れるのが嫌だったのか、

 

父の職業(?)である、ボートレースのノミ行為についていくのが楽しかったのか、

 

うっすらと記憶にあるのは、幼稚園の先生の手首に噛み付いて放さず、

 

(何があったか不明です)それ以来、幼稚園には行きませんでした。

 

親から、わざわざ高倉健さんと同じ幼稚園に入れられた・・・にもかかわらずです。

 

(正確には、首席中退というところかな・・・笑)

 

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2006年 記憶に残るエッセイ ① (井手)

 

2006年初め…謹賀新年 (井手 一男)

 

 

 

この数年間は、システム作りに必死でした。

 

その前が僧侶コースでしたから、ガラッとベクトルの向きが変わったと思われますが

 

そうではありません。自分の中では、双方とも同じ土俵にありました。

 

そしてこの翌年…

 

まあいいか、では。

 

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

 

さて、今年も始まりました。

 

既に業務に就いていらっしゃる方もいるでしょう。

 

それぞれに新年の目標を立て、気持ちを新たにされていることと思います。

 

私の今年の目標は、取りあえず上半期のみ決定しています。

 

FUNETシステムの充実。

 

これに尽きるんだあ・・・工場長には3つの具体的アイデアを出してある。

 

なるべく早急に実現化を目指します。

 

(具体的内容は秘密です)

 

それから年間のスケジュールですが、もう30件以上セミナーが決定しています。

 

穴を開けるわけにはいきませんので、特に病気には注意しなければ・・・。

 

2006年も頑張ります。

 

 

 

それにしても、どうしてお正月は・・・

 

よくよく考えてみたら普通の朝と何も変わらないのに

 

こんなにも神々(こうごう)しく感じられるのでしょうか。

 

怠惰な私でも、身も心も引き締まるような新春の雰囲気を味わうから不思議。

 

そんな感覚で書いた1月のナレーションプロローグがこれです。

 

 

 

晦日(みそか)の闇夜に梵鐘(ぼんしょう)が響き、

 

一本の直線で仕切られたかのように年が改まりました。

 

清々しい(すがすがしい)年の初め…。

 

どこか背筋を伸ばさずにはいられない、そんな尊さを感じます。

 

(猫背だからね)

 

 

 

あるいは、

 

 

 

除夜の鐘が新年の扉を叩いて、年が改まりました。

 

身も心も引き締まる新春…。

 

しかし新しい手帳の1ページに、悲しい別れを…

 

(自分は手帳も使わないくせにさ)

 

 

 

FUNET会員に配慮して、最近のエッセイではナレの露出を控えていますが

 

お正月だから少しくらい許していただきましょう。

 

これらは、FUNETのナレーション自動作成システムの1月の「新春」

 

カテゴリの中に格納されていますが、毎年こんなことを実感しますよね。

 

正月の神々しさ、清々しさは一体どこからくるものなのでしょうか。

 

 

 

そこで・・・正月とは何だ?

 

それは暦のトップ、カレンダーのトップ?

 

しかし厳密にはね、暦とカレンダーは意味合いが違います。

 

暦は、太陽や月という自然の運行を読み解いたもの。

 

カレンダーは、それを基にして月や日付、さらには祝日などを記したものです。

 

 

 

ところで、暦を作成する権限を持つということは、

 

世の中のスケジュールをプロデュースするということですから、

 

世界を創造する(支配する)のと同じ位の意味合いを持つ大変なことです。

 

ですから、長らく朝廷のものであった暦作りを、信長が奪おうとし、

 

結局は徳川幕府が奪取してしまうのです。

 

(支配権を持つのと同じことですからね)

 

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遂に決行(miori)

おはようございます。
天気は優れないのに毎日毎日蒸し暑いですね。
まさに梅雨って感じです。

さて、先日遂に我が家の暴君達の去勢手術をして参りました。(写真はマンチカン用のエリザベスカラーです。ひまわりみたいでとっても可愛い)
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2006年のエッセイより 葬儀司会<合同葬>を終えて

あの頃は、大きな葬儀が多かったですね。
14年前ですか、10年は一昔ですからね。
懐かしいですな。
弊社の女性スタッフのエッセイに私が割り込みを付けてます。
ラストの落ちには笑いましたけど。
では。

 
ご覧頂けないのが残念ですが、優しい微笑が印象的な遺影写真でした。
そしてピンク系のライトが、会場全体を柔らかく包み込み、
温かみを感じることの出来る祭壇でした。
ガス機器メーカーの会長様の葬儀式だったので、
炎の温かみが演出されていたのでしょうか・・。
また葬儀と言えば、ご遺影の枠は黒枠が主流でしたが今は様々ですね。
仏式でも花祭壇が圧倒的に多くなりました。

 
本日の宗旨は、真言宗御室(おむろ)派??
(ありゃりゃ!)初めて聞きました。
諷誦文のあと弔辞・最後は至心廻向で終了と・・・
一般的な真言宗と弔辞や退場箇所は変わりありませんでした。(良かった)
ご導師様は故人の実兄、(お兄様がお父様の後を継がれ)
故人は、先代の住職であるご尊父様の元でお経を聞きながら育ったそうです。
やはり導師の気合の入れ方が違うような・・・
哀愁のあるいいお経でした。
熱烈なお経を筆頭にピリッと締まった厳粛な合同葬になったと思います。

5人のセレモニーレディーさんが入っていましたが、
立ち振る舞いが綺麗でびっくりします。
お辞儀の仕方・方向指示・歩き方と相当レッスンを受けているのでしょう。
全員が同じ角度で礼をし、動き始めるのですが、
いい意味で調和が取れ、機械が動いているようです。
無駄のない動き・品のある口頭でのご案内・スーっと姿勢もいい。
また進行状況においてのターゲットからは、絶対に目を離さない。
そして、マイク出し・遺族・親族の焼香終了、来賓の焼香終了等、
レディーさんと司会の連動する箇所になると目配せで合図をくれる。
焼香する参列者の整列のご案内(させ方)も抜群で、
統制のとれたお式が作られていくのです。
この会社のレディーさん達は、いつ見ても惚れ惚れします。(かっこいいんだぁ)

それから式場外演出の映像は当然よね
 
シンセサイザーの奏者さんもお会いするのは2度目で、
前回お願いした事を覚えていてくださり、
聴かせる<阪神タイガース 六甲おろし>を献奏してくれました。
(導師退場後献奏がありました)
ナレーションのBGMも私の好きな<巡り逢い>を弾いてくれました。
自分の知っている曲だとナレーションがやりやすいので助かります。

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2004年のエッセイから諸々 (井手)

 <1

真宗系のお葬式では「忌中紙・忌中札」の類は使用せず、代わりに「還浄(げんじょう)」と書かれた紙を使用する地域が多いのが目につきます。これに関する質問(セミナーなどで)も多くいただきましたので、改めて記しておきます。

 

 

「還浄」(げんじょうと読みます)について、真宗系のご葬儀では全国至る所で見かけますが、恐らくはお寺様の指導によるものではないでしょうか、「忌中紙・忌中札」の代わりに使われているようです。しかしこれは誤りです。様々な議論を経た後、2001年11月1日発行の本願寺新報(日付については記憶に誤りがあるかもしれません)で既に解決済みの問題です。よくお間違えの葬儀社の方がいらっしゃるようですので、ご注意されたほうがよろしいでしよう(忌中紙・忌中札を使えという意味ではございません)。

 

2

 この当時はあまり故人にフォーカスした商品がなく、個性が引き出せないでいた…と私は感じていました。司会のナレーション以外で、簡単に、安く、という思いで開発したのを懐かしく感じます。

 

では、追悼文に関してのエッセイです。

 

20041030

 

 

濃縮された遺族の想い(井手一男)

 

 

 

『ありがとうございました・・・』と深々と頭を下げられた。

 

その声は、心の底から絞り出された声だ。

 

喪主様が、男泣きの涙を拭おうともしない。

 

こちらの方こそ、喜んでいただけて本当にありがたい。

 

 

 

6時からの通夜に間に合うように、4時30分頃式場を訪ねた。

 

ご挨拶の後、早速FUNET追悼文をお渡しする。

 

食い入るように読んでおられた喪主様の目から涙が・・・。

 

そして押し殺した嗚咽が漏れる・・・

 

読み終えて、深く息を吐き出し、お礼の言葉を述べてくださった。

 

 

 

用意したFUNET追悼文が受付に置かれ、記帳された弔問客に配られる。

 

物珍しさもあるのだろうが、皆さんが読んでいる。

 

そして、開式前の式場がシーンと静まり返った。

 

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2005年、記憶に残ったエッセイ3作品 その3(井手)

 

3

 

【主任・・・凄すぎ!】(井手一男)

 

 

 

関東地区にあるその葬儀社は、

 

当時、現場を担当する施行部隊の10名ほどは、20代の若手ばかりで、

 

皆威勢が良くて気が短くて、明るくてスケベで、賭け事が大好きで

 

いろんな意味で、元気一杯の若者たちが揃っていたのだ。

 

 

 

私は人材派遣の葬儀スタッフ要員として、ほぼ毎日出社しているうちに、

 

やがてデスクを与えられ、司会や担当もやらせていただくようになった。

 

やがて(勉強熱心な)私のデスクは資料で一杯になり、社員の皆さんは

 

何かあると私のデスクから必要な書類をコピーして使っていた。

 

(さりげない自慢である、ワッハハ)

 

その頃の葬儀スタッフのデスクの中と言えば、

 

私物ばかりか、漫画やエロ本が詰まっていた時代であり、

 

宗教の資料なんか滅多にお目にかかれなかった。

 

そして私は、宗教関係の資料と引き換えに、

 

貴重なエロ本を見せてもらっていたのは、当然のことである。

 

(大変お世話になった葬儀社さんである・・・居心地も良かった)

 

 

 

20年前、はじめてこの葬儀社さんに伺った時は、

 

それはそれは驚いたものだった。

 

派遣される側の人材は、初出社の時は身が引き締まるものだ。

 

さて、ここはどんな会社で、どんな雰囲気で仕事をするのだろうか?

 

いささか緊張している私の前に現れたのが、このお話の主役、

 

その当時の主任の方だった。

 

 

 

あっ、この方はさっき駐車場で見かけた方だ・・・と思ったが、

 

確かド派手なアメ車のオープンカーにアロハシャツ(音楽ガンガン)、

 

サングラスに、半袖の両腕には立派な彫り物が・・・。

 

絵に描いたようなヤ××である。

 

足元を見れば、げっ、サンダル履きじゃん!

 

(ウソー、えっ、まじ、主任?)

 

『井手って、お前か?

 

『・・・はい(おー、こわっ)』

 

『ランク高いから何でもできるんだろう?』

 

『・・・(何でもって・・・殺しはちょっと)はー、まあ大体は』

 

『今日社葬だから、お前司会な』

 

『はい。(殺しじゃない、ホッとした)』

 

『年は?』

 

27です。』

 

『俺より一つ上ジャン!』

 

『・・・(下かよ、まじ?)』

 

『学年だとどうなんだ?』

 

『・・・(今さら学年で聞くなって)34年のイノシシ生まれですから』

 

『やっぱ上かよ』

 

『・・・すいません』

 

 

 

何となくこんな会話があった。

 

印象としては、ちょっと怖いけど憎めないヤ××という感じだ。

 

こうして私は、主任が担当する社葬の施行をすることになった。

 

当時の私は、社葬の司会をするといわれても、

 

それこそ「なんちゃって司会」で、少しばかり器用に人前で喋れただけのこと。

 

しかし自分の姿が見えないというのは恐ろしい。

 

中途半端な知識で、平気でマイクを握っていたのだ。

 

それに付け加えれば、とても断れる雰囲気じゃないのも確かだ。

 

 

 

現場について驚いた。

 

会葬礼状と返礼品が1.000セット分ダンボールで届けられている。

 

当時は、葬儀スタッフが手作業で礼状を折って、鼠枠封筒の中に入れ、

 

さらに一つひとつ返礼品が入った紙袋の中にセットし、

 

それをテーブルの上に上手に積み木のごとく積み上げていくのだった。

 

『じゃ、これセットしとけよ』

 

たったのその一言で、見事なほどの一言で、

 

私のマジックハンドは目にも止まらぬ速さで2時間ほどフル回転した。

 

(人材の私は、どこへ行っても一番下っ端なのです)

 

その間、他のスタッフの姿が見当たらない。

 

何で?

 

どうして?

 

少しぐらい手伝えよ!

 

 

 

『おう、お疲れ!』

 

缶コーヒーを片手に再登場したヤ××主任は、

 

一本を私に投げて寄越し、(私が受け取ると)

 

『ストライク!』

 

『(えっ、キャラ変わってない?)・・・いただきます』

 

(嫌な予感)

 

さすがにスーツに着替えているから刺青も拝めないし、

 

こうして見ると、ただのアンちゃんに見えなくもない。

 

『今日の社葬二人でやっからよ、頼むぞ!』

 

『??二人だけで、ですか!』

 

『おう、うち歩合制だからよ、頭数揃えたくねえのよ、俺独り占め』

 

『はあ?』

 

『俺、頭いい? 切れる?』

 

『・・・(俺がキレるわ)』

 

(なるほど、そういうわけか)

 

どうやら基本給に、売り上げの一定歩合が付くらしいのだが、

 

施行人数で頭割りするらしいのだ。

 

ただし、これには人材はカウントされないのがミソであるらしい。

 

 

 

私の業務は、寺院との進行打ち合わせ、

 

受付や返礼品のスタッフ(会社の実行委員)への説明案内、

 

葬儀委員長、遺族、来賓、弔辞者などへの説明、

 

司会(ナレ・弔電・進行)、焼香回りの実務、香炭やローソク、

 

マイクの出し入れ、弔辞の受け渡しetc・・・。

 

一言でいうと、式場内のすべてだ。

 

(言われなくてもわかってるって)

 

で主任はと見れば、遊んでいるわけではなく式場外の雑務をこなしている。

 

こちらもかなり忙しそうで目が据わっていた。

 

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2005年、記憶に残ったエッセイ3作品 その2(井手)

 

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【僧侶に感謝!】(井手一男)

 

 

 

何故お坊さんはあんなに威張っているのだろう?

 

そして葬儀屋さんは、何であんなにお坊さんにペコペコするのだろう?

 

ほとんどの遺族の方も、お坊さんに対しては似たようなものだった。

 

20年位前、葬祭の人材派遣に入ってから一番不思議に思ったことだ。

 

 

 

法話もそんなに面白くもないし、袈裟はそりゃ立派で高価な感じはする。

 

それなりの歴史というか、伝統も感じられるが、

 

私から見れば、ハッキリ言ってただのオヤジだし、

 

『そない米搗きバッタみたいにせんでも・・・』

 

と、ことあるごとに担当の先輩社員をからかっていた。

 

 

 

暫くして、私は何故かとんとん拍子に出世し、

 

(つまり人材のランクが上がり、ついでに給料も上がり)

 

司会や担当を任されるようになると、

 

件の社員と同じ事をしている自分がいた。

 

悲しかったと同時に自分に腹が立っていた。

 

正直、「金のため金のため」と心で呟きながら、

 

米搗きバッタの自分がそこにいたからだ。

 

 

 

当時の私から見れば、僧侶の態度が余りに尊大で、

 

何か葬儀社を見下しているようで、いつも嫌な思いをしていた。

 

そのうちギャフンと言わせたいと思っていたのは確かだ。

 

 

 

そんな時、ある葬儀で遺族の親戚筋にヤ××さんがいた。

 

担当の私に、何か揉め事が起こりそうな、確かに閃くものはあった。

 

そう予感みたいなものが・・・しかしまさかあそこまで、

 

自分の想像通りにはまることは滅多にない。

 

 

 

通夜開式前の打ち合わせで、やはり揉めた。

 

読経中は焼香をしてはいけないとか、

 

遺族親族は、常に正面を向いていて、弔問客に答礼しては駄目だとか。

 

挙句の果てに、翌日の弔電拝読も省略しろだの、

 

次の日は僧侶用にハイヤーを手配しろだの、

 

まあ、その内容には一理あるのだが、言い方と態度が横柄なのだ。

 

常に命令調で、私でさえ遺族がかわいそうになった。

 

ただでさえ悲しんでいる遺族に対して、

 

あの態度はないだろうと思っていた。

 

そんな僧侶の態度の不遜さに、それでも遺族は我慢していたが、

 

××さんには耐えられなかったようだ。

 

あっという間に堪忍袋の緒が切れて、

 

『てめえ態度がでけえんだよ!おらっ坊主、埋めるぞこらっ!』

 

(逞しい-、埋めて埋めて今すぐ・・・心の声です)

 

『表出ろっ!こら、くそ坊主』

 

(くそ坊主だって、素晴らしい響き・・・心の声です)

 

一発、軽く頭を殴られた僧侶は途端にオロオロし、

 

担当の私は、一応形ばかりの態度で、

 

『暴力はお止めください、落ち着きましょう』

 

などと言いながらも、自分の立ち位置を考慮し、

 

××さんの邪魔にならないように配慮していた。

 

 

 

逃げる坊主に追うや××。(七五調)

 

映画のワンシーンのようだ。

 

『カット』・・・止まるわけないか。

 

(井手の回想シーン・・・つまり井手の頭の中です)

 

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2005年、記憶に残ったエッセイ3作品 その1(井手)

 

2005年のエッセイから記憶に残ったものを、

 

今日から3日連続で3作品を振り返ろうと思います。

 

 

 

最初は私のエッセイではないのですが、女性スタッフが書いたものです。

 

私も父を早くに亡くしていますが、彼女も高校生の時だったようです。

 

1年は365日の繰り返しですが、日付に関して不思議な縁が感じられた作品でした。

 

では、第1話。

 

 

 

【2月2日は、私にとって激動の日であります】

 

 

今から24年前の今日、父が亡くなりました。

 

癌の宣告を受け、たったの半年・・・

 

すべてを受け入れ、弱音ひとつ吐かず、

 

厳格な父らしい最期でした。

 

 

死の宣告を受けてからの半年間は、本当に辛かった。

 

死の瞬間、

 

「父は、これで苦しみから解放されるんだ・・・そして家族も」

 

悲しみや寂しさよりも、ホッとした気持ちの方が強かったかもしれない。

 

そんな感情を最後に・・・私の心は、暫く封鎖された。

 

 

慌ただしく通夜・葬儀の準備が進む中、

 

高校の制服姿で、ひたすら漫画に没頭する私の姿は、

 

世間にはどう映っただろうか?

 

(漫画じゃなくて小説だったら、もう少しまともに見えたかな。)

 

今でこそ、そんな事を考えてはみるものの・・・

 

漫画は、人から話しかけられるのを拒むことができ好都合だった。

 

そして、現実から逃避することもでき、

 

悲しみから自分を防御することも出来た。

 

高校生にもなって、なんて弱い、なんて非常識な態度を・・・と思うが、

 

私の精一杯の身の振り方だったような気がしている。

 

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2006年 葬儀司会を終えて (井手)

 

NHKの朝ドラのように、そのまま再放送とも思いましたがそれは無理。

 

2006年の頃は、私も講師業一本ではなく司会の現場に入っていました。

 

偶には田園調布のS葬儀社様(現在公益社)で担当させてもらっていましたが

 

因みに、中央仏教学院の僧侶養成コース卒業後に現場に伺うようになると、

 

僧侶の我儘と思える行動がやたらと目につきだしました。

 

 

 

 

 

参ったぜ。

 

無茶苦茶疲れました。

 

慣れない地方の葬儀は面白いけど、色々とありますなあ。

 

 

 

連絡を受けたのが27日の11時頃。

 

「明日(28日)と明後日(29日)・・・誰か司会者いませんか?

 

「えっ、何? どういうこと?

 

「オープン前なんですけど、もう仕事請けます。」

 

「・・・」

 

2月中旬のオープンのはずが・・・やっちゃうの? 大丈夫?

 

最後の研修で、全体の動きを確認する予定が、それも終わってないし、

 

一体スタッフは動けるのだろうか、そもそも物は揃っているのか。

 

 

 

・・・自分が行くしかないだろう(と神の声)。

 

・・・お前は関係ないじゃん、ただの講師だし(と悪魔の囁き)

 

右ハイキック一閃、神の声のKO勝利。

 

俺は責任感の塊だ・・・ということで、全てのスケジュールをお断りして、

 

とにかく新潟へ向かったぜ。ただし、新幹線の車中では

 

S山(担当者の氏名です)大丈夫だろうな」と100回位ブツブツ言ってたけど。

 

 

 

自分がしてあげられることは何か。

 

司会とFUNET・・・

 

司会だって新潟バージョンはよく分からないんだけどね。

 

パネルとDVDだけは制作出来るように急遽準備をしました。

 

 

 

近所のMUSASHI(看板のIが落ちてるけど)というホームセンターで、

 

あり合わせの物を買ってきて即席で作ったメモリアルコーナー。

 

Iが落ちてるだけに、愛のないお店でした・・・ごめん)

 

 

 

FUNETのイメージボードとフォトボードで構成してます。

 

因みに観葉植物は、事務所にあったものを流用しました。

 

ランプもバックの格子状の物も全てその場調達です。

 

次は、色々と揃えといてください。(頼むぜ)

 

 

 

入り口のエントランスには、DVD映像を流し、

 

その場で作成したメッセージボードと合わせてエントランスに飾りました。

 

 

 

弔問の皆さんは、映像を見たり、思い出の写真を眺めたり、

 

メッセージボードで時代を懐かしんだり・・・と、

 

故人を偲んでいただきながら、全体の空気感を演出しています。

 

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猫とギター(miori)

おはようございます。

何年か前に父が持っていたギターを1つもらったのですが、ネイルをずっとしていたので弾けず、最近のステイホームでネイルサロンにも行けなかったので遂に自分でバッサリと爪を切ったので、やっとギターを触れるようになり、この際だからとギターを始めてみました。

先ずは古くなったギターの弦を変えるとこからなのですが、なにぶん初心者なもんで、弦の張替えすら全く分からない状態…
しかし今は便利な時代で、YouTubeを見れば弦の張替え動画なんてものがあるのでそれを参考にしつつ張り替える事に。

動画の手順通りに弦を外したら…
ある事に気づいた。

我が家には猫が4匹も居ることを。
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名古屋の通夜 (井手)

 

名古屋の通夜は、名古屋人がよく食す「助六」を持たせることが一般的らしい。

 

愛知県下では、関東と同様に通夜振る舞いをする地域もあるようだが、

 

以前から名古屋だけは通夜振る舞いをする習慣がなかったようだ。

 

 

 

名古屋で回転寿司に行けば、小皿に乗ったお稲荷さんが回ってくる。

 

私は少し驚いた。東京ではあまり目にしない光景だが、名古屋では普通だ。

 

確かに甘党の私はお稲荷さんが好きだが、それでも回転寿司では手は出さない。

 

 

 

コンビニやスーパーのお弁当売り場に行けば見かけることが多い「助六寿司」は、

 

「いなり寿司+巻き寿司」このセットで販売されている。

 

今日は名古屋の通夜で定番の「助六寿司」の「助六」について。

 

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