「我と来て 遊べや親のない すずめ」

この時期になると、中央仏教学院の同窓会から会誌が届く。
パラパラと捲る。
講師の浅田先生の書いた原稿を読んで感銘を受けた。
ご存じのように一茶は子供に親しみのある俳句を作る。
「名月を とってくれろと 泣く子かな」
「すずめの子 そこのけそこのけ お馬が通る」
これらの句は、小学生なら多分知っているだろう。
冒頭の「我と来て 遊べや親のない すずめ」には、
一茶の幼年時代の寂しさが滲み出ている。
8歳で父が再婚、10歳で義理の弟が生まれ、一茶は祖母を頼りに育つが
その祖母も14歳の時に他界。そして翌年、江戸に奉公に…
いつの頃からか、葛飾派に入門して俳諧を学ぶ。
39歳で父を亡くしてから、念仏の世界へ没頭していったのだろうか。
その時の句が、「生き残る 我にかかるや 草のつゆ」
当時の39歳は、今で云えば結構なお歳。
そこで次の句(一茶40代)。
「歯が抜けて あなた頼むも あもあみだ アモアミダ仏 あもだ仏」
洒落てるなあ!
私はこの句は知りませんでした。
そして50代、江戸を去り長野県の柏原へ戻る。
その時の句が
「是がまあ つひの棲家か 雪五尺」
何とも切ない…
51歳で「きく」と結婚。
初婚でした。
24歳も年下と結婚なんて…羨ましい~!
54歳で長男を授かりますが1年も持たずに夭逝。
56歳で長女誕生。
翌年の正月、嬉しさの余り「這え笑え 二つになるぞ けさからは」
と云う句を作るのですが、その娘も6月に亡くなります。
「露の世は 露の世ながら さりながら」
この句が、何とも絶望的に聞こえてきます。
一茶は、その後も2人の子を授かるのですが、いずれも死に分かれ、
最後は愛する妻「きく」とも死別します。
そして最晩年には柏原を大火が襲い、人生の辛酸を舐め尽くすのです。
4人の子と死に別れ、年下の妻とも死別。
これほど凄まじい人生を歩んだからこそ、彼には念仏があり、
これほどの逆境の中にあったからこそ、また親しみのある句が誕生したのでしょう。
最後は土蔵だけが残る柏原の実家で往生します。
小林一茶…65歳。
「年もはや あなかしこ也 如来様」
ご来迎が、見えていたのかな。