葬儀は変容から変化へと (井手)

 

多死社会へ向けて家族葬のシェアは増え続け、

 

葬儀の単価が下落し続けている。

 

市場原理だから、それが当たり前とか、

 

いやいや葬儀の内包する意義からして、

 

市場原理に当て嵌めるのはおかしいとか…

 

でも結局、価格は確実に下がっているし、

 

この方向に進むのは誰も止めることはできないだろう。

 

 

 

そのことを、葬儀社やその関係者の眼で見れば、

 

全体の価格の変化にばかり目が行ってしまって

 

不安になるのは当たり前のこと。

 

そこで「売上」よりも「利益率」という話にもなろうが

 

それは全体の葬儀単価下落現象の歯止めではなく、

 

それを前提とした「やりくり」の話でしかない。

 

いずれにしても葬儀社や関連業者である以上、

 

葬儀価格の変動に目が行くのは致し方ない。

 

 

 

しかし、日本人の大多数は葬儀社やその関係者ではないから、

 

(当たり前だが)今、葬儀業界に起きているこの現象を、

 

どういう視点で見ればいいのだろう。

 

 

日本人は現在、死について、変容の混乱期にある…らしい。

 

多分、これが正解だろう。

 

変容って、字面からは分かるけど、正確に知りたい。

 

「変容」とは、

 

姿や形が変わること。姿や形を変えること。

 

じゃ「変化」との違いは、

 

「変化」は、外面的な姿や形が変わること。

 

「変容」は内部が変わった結果、外に現れた様子が変わったこと。

 

 

 つまり現代の人々の多くが、多死社会へと向かう過程で

 

「死」に対する考え方が変わり始めて、

 

それが「葬儀」の在り方に現れたということだ。

 

 

日本人は過去にも「死」について

 

何度か「変容」したことがある。

 

それについては専門家ではないので記さないが…

 

 

その代り、私の拙い経験則で、

 

変容から変化に変わりつつあるものと云えば

 

お弁当だ。

 

お弁当は、私が幼い頃は

 

「家で作って、外で食べる」

 

のが原則で、誰もそれを疑わなかった。

 

現在、お弁当は

 

「外で買って、家で食べる」

 

これが主流になりつつある。

 

変容から変化への途中だ。

 

しかも、かつて家でお弁当を作っていた

 

お年寄りが自身が

 

その変化の中心にいるような気がしてならない。

 

 

 

変容の混乱期にある「死」に話を戻すと

 

現在の「死」についての「変容」は、

 

昭和20年の終戦以降の様々な変化に起因する。

 

 

例を挙げれば、土葬⇒火葬と圧倒的に変わり、

 

子供の教育も以前とは、大きく変わった。

 

そして徐々に変化した家族構成、また地域との関わり方、

 

自宅⇒集会所⇒ホール…と目まぐるしく変化した葬祭場、

 

白木祭壇⇒花祭壇などの変化にも見てとれる…

 

 

 

地域の方々の手に有った葬儀が、

 

遺族の手に渡れば(戸惑うだろうし)、

 

そこには代行する葬儀社が必然だった。

 

そうすることで、やがてはコミュニティという単位から

 

家族という小さな単位に移行して家族葬に…

 

誰が悪い訳でもなく、社会の流れ、世の中の趨勢であろう。

 

 

 

また、死の個別化は、死について発言しやすくなり

 

様々な葬祭(供養)商品のラインナップが並ぶという事は

 

市場原理が働くということにも拍車をかけるだろう。

 

 

 

日本人独特の死生観(これがあったとして)や儀式性は

 

薄れていく傾向にあり、これもまた「変容」ということで、

 

時が過ぎればいつしか「変化」になっているはずだ。

 

 

 

今、葬祭関係者は「変容」の中にあるのだ。

 

「変容」の混乱の中にいて、何をすべきか。

 

 

そこがポイントだ!