ひめゆりの塔へ (井手)

 

今回初めて、ひめゆり平和記念資料館へ行くことが出来て知ったのだが、

 

ひめゆりの由来は、植物の花のひめゆりとは無関係。

 

1945年、沖縄で米軍の上陸作戦が開始され、看護要員として陸軍病院に動員された女生徒たち。

 

その女生徒の母体は、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校。

 

両校が併設されそれぞれの交友会誌の名称が前者は「白百合」、

 

後者は「おとひめ」といい、併せて「ひめゆり(姫百合)」となったそうだ。

 

但し、現在のように「ひらがな表記」に変わったのは戦後。

 

沖縄に来るのは3回目。

 

若い頃が1回目、2回目が家族で、3回目が今回。

 

ひめゆりの塔には行ってみたいという思いがあっても、

 

家族連れや若い時は、どうしても楽しみが中心の旅で訪れる機会がなかった。

 

この場所は司会講座の研修場所ともそれほど遠く離れていない、ラッキーだった。

 

レンタカーで到着。

 

観光地のようにおみやげ屋さんが立ち並ぶ。

 

Tシャツに「巨乳」とか「クソガキ」等が並び笑いを誘う。

 

 

 

併設された両校の校門までの80mは相思樹並木だった。

 

茂った枝が左右から自然のトンネルを作り、初夏には黄色い小花が咲いたという。

 

しかし、沖縄戦で学園は失われ、その姿を伝えるのは写真のみである。

 

 

 

入館する。

 

1945年3月23日、那覇市の南東5キロ、なだらかな丘が連なる南風原(はえばる)へ

 

看護要員として動員された240名の写真の前で息をのむ。

 

そこには沖縄陸軍病院があった。蟻の巣のような横穴壕が40ほど堀めぐらされ、

 

剥きだしの土壁に沿って粗末な2段ベッドがあるだけの病院。

 

ここで起こった凄惨な出来事、僅か数ヶ月の間に人生を翻弄された彼女たちの運命。

 

1945年6月18日夜、米軍が包囲する戦場に放り出された解散命令後の彼女らの彷徨の様子が、

 

存者の証言映像や米軍のフィルムで伝えてくれます。

 

戦争の真相を知らずに戦場へ出て行った彼女たちの声なき声が聞こえてきます。

 

日本で唯一、地上戦が繰り広げられた沖縄。

 

沖縄県民の4人に1人が亡くなりました。

 

 

入館する時は少しドキドキするが、出る頃にはグッタリ口も訊かない。

 

無論一人だから口を訊く相手もいないが、絶望感・虚脱感に襲われてしまう。

 

ある程度歳を取って、物が分かる年齢になったら子供たちを連れてきたいと思う。

 

 

 

明日は司会研修だ。