邪馬台国はどこ…の前に(井手)

 

永遠のテーマである邪馬台国はどこにあったか。

 

畿内説や九州説、また出雲説など「魏志倭人伝」の解釈の仕方でどこも決定打に欠ける。

 

近年、纏向遺跡が発見され大型建造物跡が卑弥呼の宮殿ではないかと報道されたが、

 

住居跡が大きいだけで王権の所在を確定するには至っていない。

 

 

 

このように卑弥呼は、そして邪馬台国はどこにあったのか---古代ロマンの定番だ。

 

そんな中、渡部昇一氏の遺作「渡部昇一の少年日本史」が、

 

その事について実に分かり易く書いてあるらしい。

 

私も早速アマゾンで購入、移動の車中で読んでみた。

 

実に面白い。

 

 

小説より抜粋

 

卑弥呼や邪馬台国について触れた『魏志倭人伝』は、『三国志』の「魏書」にある「東夷伝」中に含まれていて、三世紀の末頃に書かれたといわれています。

 

「東夷伝」の「東夷」というのは「東のほうの蛮族」という意味です。そんな海の向こうの蛮族について、どれほどの関心を抱き、どれほどの知識を持っていたでしょうか。

 

おそらく「東のほうにどうも島があるらしい、その島の名前は『やまと』というそうだ」という、噂の噂ぐらいのレベルで耳にしたことを書いたと考えるほうが妥当でしょう。

 

邪馬台の「台」は「と」と読めますから、「やまと」に「邪馬台」という漢字を当てて書いたのでしょう。しかも相手には野蛮国という先入観がありますから、「邪」という悪い漢字を使っているわけです。そこの支配者は卑弥呼という女王であるというのも、どこかで耳にしたことなのでしょう。

 

日本人から見れば卑弥呼は「日の御子」です。日本人は昔から天皇のことを日の御子と呼んでいたのです。だから、卑弥呼とは天皇のことなのではないでしょうか。

 

われわれが小学校のときに歌っていた紀元節(神武天皇が即位した日として明治6年に定められ、昭和23年に廃止されるまで続いた祝日、現在の建国記念日)の歌の三番に「天つひつぎの高みくら(天津日嗣の高御座)」という歌詞がありました。天皇は天津日嗣の人だから日嗣の御子となって、日の御子と呼んだのです。

 

しかし『魏志倭人伝』の作者は野蛮人の国の日の御子だから「卑」という字を使って卑弥呼としたのでしょう。本当はお日様の「日」だったに違いありません。それが女王であったというのは、日本の神話では天照大神という女神がいたという話が伝わっていて、それと重なって女王の卑弥呼になったのだろうと私は想像しています。

 

このような想像の産物が『魏志倭人伝』なのではないかということは昔の人も考えたようで、第二次世界大戦の前までのまともな日本の歴史家は誰も『魏志倭人伝』を取り上げていませんでした。

 

ところが戦後になると、とくに1970年代あたりは中国大陸や朝鮮半島を重んずる風潮が強くなって、あたかも邪馬台国や卑弥呼が『魏志倭人伝』に記されたとおりであったようにこじつける仮説がたくさん出てきました。しかし、前記のような理由から、こういう仮説は無視するのが正しいように思います。

 

 

 

以上

 

実にバッサリですが、その通りでしょう。

この本を読むと、様々な認識を改めさせられます。

 

では。