
平安時代の貴族の子供用の教科書に、
日本国内何でもトップ3を覚えさせる箇所がある。
「口遊(くちずさみ)」という書物だ。
その中で、大きい建物トップ3が書いてあり、
「雲太・和二・京三(うんた・わに・きょうさん)」とある。
当時は、1位が太郎・2位が二郎・3位が三郎となっていて、
それなら、1位も一郎の方がと思うが、今さら言っても詮無いことだ。
「雲太・和二・京三」は、1位が出雲大社、2位が東大寺の大仏殿、
3位が平安宮の大極殿ということである。

因みに、口遊に書かれている川の長さトップ3は、
「坂東太郎・筑紫二郎・四国三郎」
1位が利根川、2位が筑後川、3位が吉野川ということです。
※坂東は、関東地方の古名(古称)、或いは利根川沿いの地域
昔の教科書にも興味があるなあ。
出雲大社本殿は、伊勢神宮の「神明造り」と共に、国内最古の神社建築様式とされる
「大社造り」と呼ばれる形を伝え、歴史的建造物として国宝に指定されている。
等倍に縮小してありますが、やはり大きさがかなり違います。
神明・大社造りの大きな違いは構造の違いです。
入り口の方向が伊勢は平入り、出雲は妻入り、そして伊勢は正面、出雲は右寄り、
さらに伊勢神宮は正面の中央に神様、出雲大社は右端から入って中に区切りがあるので
中央で右回りをして神様、と明らかに文化が違う。
大社造りは、心柱が部屋の中央に来るのでそうなるのだろう。
恐らく出雲大社は縄文時代に見られる巨木信仰があったのでしょう。
この出雲大社、現在も社殿の高さは24mと神社として群を抜く大きさであるが、
社伝によれば、平安時代には16丈(48m)もの高さがあったと伝えられ、
さらに上古には倍の32丈(約96m)もあったという。
48mといえば15階建てのビルに匹敵する高さである。
しかし、諸説があり、いくつかのパターンが作られて展示してあります。


真上の一番大きな模型を見てください。
この後ろに、建て直す前の「堅魚木(鰹木・かつおぎ)と千木」が展示されていました。
屋根の上だけで、この大きさですよ。
堅魚木は「勝男木」とも書き表し、戦時中、多くの方々が少しずつ削っては
肌身に付けて戦地に赴いたそうですよ。
この辺りは寅年生まれの女性に千人針をひと針ずつ縫ってもらった
千人針と同じ感覚ですね。

今回も色々と考えさせられたが、私は梅原猛さんの説に大賛成である(後年の説ですが)
つまり、アマテラスを開祖とするヤマト王朝以前に、
スサノオを開祖とする出雲王朝が数百年にわたり日本を支配していた。
朝鮮半島から渡来したスサノオは、
圧政で人々を苦しめる豪族=ヤマタノオロチを退治し、出雲平野に豊かな王国を築く。
6代目の大王オオクニヌシの時代には因幡(現・鳥取県東部)や越(北陸~新潟県)、
南進して近畿まで支配するが…やがて衰亡(この原因はわからない)。
南九州から東征してきた天孫族に「国譲り」を迫られ、稲佐の海に隠れたのだろう。
ただ、弥生時代、日本列島の文化的中心は日本海沿岸にあったことは間違いない。
出雲については。今回触れていない資料がまだまだ眠っている。
また来年も行って、係の方と話をして来よう。

最後に、勾玉について。
何故、勾玉はあのような形なのだろう。
「玉」というのは、その当時で云えばアクセサリーのこと。
勾玉は、曲玉と表記していたものもあるくらいだから、字の如く「曲がった玉」。
しかし、面白いことに諸説あり。
縄文時代は、捉えた獣の牙を削って、装飾品として身に付ける風習があった。
削る前の牙の形を想像すると、分かるように勾玉の形の原型である。
或いは、動物や植物も命を授かって、一度はあの勾玉の形をとる筈。
哺乳類や人間なら母親の体内の中で。
そうした生きとし生けるものの姿形の代表ではないか、とする説もあるらしい。
考えすぎか?
では。