世界遺産の今帰仁城址(なきじんじょうし・なきじんぐすくあと)
【別名北山城】
※ぐすく(グスク)とは、本土で云う城のこと。沖縄の信仰の聖地として御嶽(うたき)
があるが、グスクは本来、御嶽があった場所と考える説もある。
琉球が統一される前の14世紀、北山の国王の居城。
その面積は首里城とほぼ同じ、城を囲む石垣は地形を巧みに利用し曲線を描き、
城壁のディテールは美しく沖縄屈指の名城で、日本100名城にも選ばれた。
門から城の中心部へと向かう階段(戦後に造られたもの)の左右には、
カンヒザクラの並木があり、毎年1月末 ~ 2月初旬に開花するので有名。
割と小高い所まで車で登っているから、門を潜ってからは短時間で頂上に。
下の右にある写真は火の神(カマドの神)を祀ってある祠(建物)。
火の神…ヒヌカンという。
祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれています。
実は沖縄で火の神(カマドの神・ヒヌカン)は大変重要である。
本土の人にとっては、昔から仏壇と神棚という常識があるだろうが、
その神棚に祀ってあるのは本土と違い、沖縄ではこの火の神(ヒヌカン)を祀るらしい。
例えば、病院で人が亡くなると、昔から伝わる作法があるそうだ。
15本の線香を点けて、遺体の四隅を丁寧に周りながら、
これから家に連れて帰ります…みたいなことをブツブツいうらしい。
そして搬送後、真っ先に台所に向かいカマドの神(ヒヌカン)に報告する。
本土ではみない作法です。

亡くなった時だけでなく、門中(むんちゅう)の行事…一族の行事・法要等では、
今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えないそうです。
文字の読み方もそうですが、どう考えても中国の影響は強く
ここ今帰仁(なきじん)も万里の長城のように要塞が作られていました。
14世紀の中国の史書に琉球国山北王「帕尼芝」「珉」「攀安知」の三王が登場します。
沖縄本島は、北部を北山、中部を中山、南部を南山が支配し、三山鼎立の時代でした。
北山王は今帰仁を拠点に沖縄本島北部を支配下とし、中国と貿易をしていたようです。
沖縄の歴史には、グスク時代というのがあります。(直訳すると城時代)
13世紀から15世紀にかけて、上記の三大勢力が覇権を争った時代です。
本土ではその頃、平安末期から鎌倉時代にあたっています。
甲子園に出た豊見城高校はご存じだと思うのですが、
読み方は「とみしろ」と呼んでいます。
でも、豊見城高校のある「豊見城町」は「とみぐすくまち」と呼んでいます。
豊見城高校は、校長先生が「我が校は、とみしろと読む」と宣言したらしいのですが、
態々宣言をしなければならないというのは…大体想像がつきます。
「今帰仁」も同じで、沖縄の人は「方言」と理解しているようですが、
元来存在した言語(言葉)を、無理に日本語にしたから、
どうしても読めない…こういうことが起こるのでしょう。
今帰仁(なきじん)…今帰仁は「きじん」は覚えられますが、
「なき」を「今」と表すのはどうしてなのか。
そこで沖縄の人に「どうやって今帰仁の漢字を覚えたのですか?」
意味がないから習慣でとか、何度も書いて…そのような答えばかりです。
言葉の、ルーツが違います。
因みに、沖縄の苗字「保栄茂」と書いて、何と読みます?
答えは
「びん」です。
何故、三文字の漢字が、読んだら2文字の「びん」になるのか。
理解に苦しみます。
本土の人は、沖縄のお葬式を理解するのに、その歴史から知らないと無理ですね。
字が読めませんから。
「金武」と書いて何と読みますか?
答えは、
「きん」です
「金」が「き」で「武」が「ん」。
頭がこんがらがります。
沖縄、なかなか深いです。
明日は、古宇利島(こうりじま)から辺戸岬、大石林山へ。
では。