長崎のグラバー園 (井手)

 

 

長崎の「グラバー園」と現在は言うらしいが、私が若い頃は「グラバー邸」と言った。

 

グラバー邸は長崎港が見渡せる小高い丘の上に立つ。

 

若い頃何度か行ったが、グラバー邸に到着するまで結構歩き、

 

いい運動になる、そんな場所だ。

 

その後、お年寄りも含め誰でも登りやすく等と配慮して、動く歩道が設置されたり

 

或いはその一帯を観光地化するために(実際にTVドラマ等でも使用)開発された。

 

 

グラバー園公式ウェブサイトでは…

  

16世紀後半 大洋の波を越え、夢を抱いて長崎にやってきた異国の商人たち。

 

ヨーロッパや中国から多くの人々が渡来し、この地は賑やかな国際貿易港へと発展し江戸時代の鎖国期に引き継がれました。長崎も横浜・函館とともに開港され華やかな時代を残しています。長崎港を見渡す丘陵地には日本風の屋根瓦に覆われた洋風建築が立ち並び、長崎外国人居留地が誕生しました。その地に新たな歴史を刻む「グラバー園」。

 

スコットランドの貿易商人、トーマス・ブレーク・グラバーの邸宅をはじめ3つの国指定重要文化財の住宅と、長崎市内の貴重な洋風建築を見ることができます。

 

居留地時代の面影を今に伝える石畳や石段、長崎港を一望できるロケーションと、歴史、文化の香りに包まれながら、貴重なひとときをお過ごしください。

 

…とある。

 

ウェブサイトは何も間違っちゃいない。

 

只、彼はある意味「死の商人」と呼ばれる人であった。

 

「死の商人」とは、友敵を問わず、兵器を販売して巨利を得る人物や組織への蔑称、

 

または営利目的で兵器を販売し富を築いた人物や組織への蔑称である。

 

 

 

光と闇、善悪表裏一体のグラバーの人生を追ってみよう。

 

1838年スコットランドで生まれる。

 

父は沿岸警備隊の1等航海士、8人兄弟姉妹の5人目であった。

 

1859年、上海に渡り「ジャーディン・マセソン商会」に入社。

 

同年9月、開港後まもない長崎に移り、その2年後には「グラバー商会」を設立。

 

貿易業を営む。当初は生糸・茶の輸出が中心だったが、

 

1863年、長州藩が画策したクーデター阻止事件(禁門の政変)以降、

 

日本の政治的混乱に着目し、討幕派、佐幕派、幕府、誰にでも武器や弾薬を販売。

 

その後、大いに潤うのである。

 

 

 

グラバーの時代を見る目は確かである。

 

彼は、長州(この時は開国派から攘夷に転換)と対立する薩摩(新たな開国派)、

 

幕府を含めた全てに武器・弾薬を売って荒稼ぎ、莫大な財を築いた。

 

 

 

そこに土佐脱藩浪士、坂本龍馬率いる海援隊(3年間だけの活動)の亀山社中。

 

1865年(禁門の変から2年後)に設立され、その3か月で銃7800丁、

 

更に2か月後には軍艦までも購入。

 

たかだか一介の脱藩浪士が、たったの数カ月でこのような実績を残すのは、

 

恐らく不可能である。

 

それを可能にしたのは、可能にした人物がいたからだろう。

 

設立以前から、入念に海外に準備をした人物…グラバー以外に考えられない。

 

 

 

日本初の株式会社だが、脱藩浪士に資金があるはずもなく、

 

薩摩も資金援助をしていたようだが、一番はやはりグラバーのグラバー商会。

 

グラバーは、薩摩の五代友厚、森有礼、寺島宗則、長澤鼎らの海外留学や、

 

長州五傑(井上聞多(馨)、伊藤俊輔(博文)など)の英国渡航

 

(ロンドン中心にあるユニバーシティカレッジロンドン・UCLの法学部の聴講生)、

 

を手引きしたのだから、薩摩・長州との結びつきが強かったのは理解出来る。

 

因みにこの大学から29名のノーベル賞受賞者を輩出している。

 ※数年前、研修でロンドンを訪れたが、UCLに長州五傑の銅像があると聞き行ってみたかったが無理だった。誠に悔やまれる。

 

 

薩長同盟も龍馬朱筆の裏書の話がよく出るが、そこに何の意味があるのだろうか。

 

例えるなら、大企業のトップ同士の約束事に、アルバイトが裏書するようなもの。

 

しかしそのアルバイトが、日本を揺るがす海外の大金持ちの手下だとしたら意味を持つ。

 

 

またグラバーは、亀山社中設立と同じ年、大浦海岸で蒸気機関車を走らせている。

 

そして製茶工場の建設、高島炭鉱の経営、岩崎弥太郎の三菱財閥相談役、

 

麒麟麦酒(現キリンホールディングス)の基礎を築いたとされる。

 

プライベートでは五代友厚の紹介でツルと結婚、2人の子を授かる。

 

晩年は東京で暮らし勲二等旭日重光章を授与。

 

維新後は明治政府との関係を深めたが、武器が売れなくなり、

 

また諸藩からの資金回収も不可能となり1870年(明治3年)グラバー商会は倒産。

 

 

日本の混乱期に乗じて大活躍し、その後、破産に至るとは…

 

素晴らしい数々の西洋技術も紹介してくれたが、

 

一方で、国内のどの勢力にも武器や弾薬を売ったのも事実。

 

グラバー園を訪ねたら、いつもこんな感じで邸を眺めていた。

 

 

ここで隠し部屋が見つかった。

 

今でも天井裏にあるそこでは、嘗て五代友厚や高杉晋作や坂本龍馬や伊藤博文…

 

維新のオールスターが会合を開いたり匿われていたり、と想像が尽きることがない。

 

増改築を繰り返し、密航の手引きをしたグラバー邸。

 

長崎奉行所が立ち入ることが困難であったというグラバー邸。

 

維新前後の革命期に、これだけのオールスターを揃えたグラバー邸。

 

 

日本に最も影響を及ぼしたスコットランド人、トーマス・ブレーク・グラバー。

 

とても魅力的でユニークな人生だ。

 

 

私が生まれた1959年は、明治維新から100年も経っていない。

 

たったの100年で文明はあまりに大きく変わる。

 

 

あるお寺の標語が浮かんだ

 

「私たちが歴史から学んだことは、

 

私たちは歴史から何も学んでいないということだ」

 

時代小説や大河ドラマが悪いというわけではない。

 

全てが嘘だと言ってるわけでもない。

 

ただ、意図して創られた物と、歴史との間には、埋めようもない乖離があるのだ。

 

 

懐かしい、また、見に行こうかな。

では。

 

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