これだ。

大阪入りした講座の前日、ミナミの難波を皮切りに、
引っ掛け橋と言われる戎橋~心斎橋界隈を一巡り、ホントに飽きない街です。
食の街大阪は、豊臣秀吉の時代には日本の中心地であった。
その後、江戸に幕府が移った後も日本第二の都市として栄えてきた大阪。
その中心街は、大阪梅田界隈「キタ」。
しかし、国内外の観光客に絶対的人気が高いのは「ミナミ」。
この日のルート、難波や心斎橋近辺で間違いない。
では何故、「ミナミ」がそこまで人を惹きつけるのか。
それは、派手なネオンとドデカイ看板にある。
「ベタ」で「クドイ」とも思われる「ミナミ」が、
「食とエンターテイメント」の街であり続けるからかもしれない。
ここで、その中心を流れる道頓堀の歴史と重ねながら街の発展をみていこう。
道頓堀の歴史は、1612年成安道頓(道頓堀の由来)が、
(二つの川を結んで木津川へ流す目的)南堀河の開削に着手したことに始まる。
成安道頓は大坂夏の陣で戦死するが(古い話でスマン)、
従弟の道卜が後を引き継ぎ、1615年に道頓堀が完成。
完成当時は単なる普通の堀でしかない。
ところがそれから10年後の1626年、南船場にあった芝居小屋を道頓堀に移したのが、
芝居町としての発展のキッカケとなった。
当初は人形浄瑠璃が盛ん、次に歌舞伎も盛んになる。
そして、天才竹本義太夫が登場、竹本は義太夫節を始めた人物で、
近松門左衛門と組んで大評判となった。
こうして道頓堀は押しも押されもせぬエンターテインメントの中心地として発展。
やがて芝居客目当てのお茶屋が界隈に林立し、
ざっというと、その後400年間衰退することがなかった。
近い所では、大正から昭和初期にかけてはジャズや漫才が盛んで、
藤山寛美の新喜劇も道頓堀で誕生する。
道頓堀には、新しいものを生み出す庶民のパワーがあったのだろう。
また、音楽喫茶「ナンバ一番」は沢田研二や和田アキ子を輩出した。
そして何と言っても道頓堀のシンボルは、グリコの大看板が放つネオンサイン。
LED照明に代わってから少し大人しく感じられたが、その佇まいは圧巻だ。
この巨大広告塔が評判を呼び、同様のものが次々に作られていったのではないか。
一説には、ラスベガスのネオンサインを模したともいわれている。
以上が、簡単な道頓堀と街の発展の歴史だ。
今後、何が生まれてくるか…楽しみな街である。
では、写真をどうぞ。
♬包丁一本♪晒しに巻いて♫旅に出るのも…(古っ!)


笑いの殿堂・吉本の拠点と言えば
江崎○○○、一粒で2度美味しい。
橋の手すりが全てお好み焼きの「こて(東京ではヘラ)」の集合体
大阪万博決定です。楽しみが増えてよかった。

金竜ラーメン…立ち食いです、しかも美味いです。
タコとイカ、だと思うのですがイルカに見えて仕方ない

占いの館…私は信じませんが。

その他(オマケ)
ではまた。