葬送文化学会の忘年会が行われた日、
少し時間が空いたので上野の東京都美術館に寄ってみた。
只今待ち時間10分~15分とあったので、これは幸いだと中に入った。
ごった返していた。
並んでいないからと、人が少ないわけじゃないと初めて知った。
学芸員の方が引っ切り無しに
「ここから2列でお願いします」
「どうか立ち止まらずに、ゆっくりお進みください」
「ここからは再び交互に1列でお並び下さい」
まるでベルトコンベアーに乗せられ芋のような群衆…絵の鑑賞も大変だ。
俺の気持ちが、まるで“ムンクの叫び”のようだった。
そうか、この感覚を味あわせるために、ワザとこういうやり方???
んなわけ、ないない!
私は絵画にはとても疎い。
ただ、海外へ行けばもう二度と来られないと思うので美術館には必ず入る。
でも日本にいても二度と行かない展覧会は山ほどある。
ここは海外だという環境が、私のケチ臭さを増幅させるのだ。
人の波を追い越しながら、気になった絵画だけをじっくり見た。
私は美術館ではいつもそうだ。
流れに逆らうことはしないが、一定のスピードで進むことができない。
気になる文言があった…「私の絵は、自己告白である」
何のことかと思えば、エドヴァルド・ムンクは自画像ばかり書いているのだ。
ムンクは幼少期に母親を亡くし思春期に姉の死を迎えるなど病気や死と直面せざる
を得なかった1890年代のムンクが、「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」を…
作家の背景を知らなければいけないのか?
背景など関係なしに、自分の眼で絵を楽しみたいが…
私が初めてムンクの絵を教科書で見た時は、その強烈なデフォルメに親しみを覚え
「これなら中学生でも書けるような気がする」と単純に思った。
皆様もそういう方がおられたのではないだろうか。
彼の絵を、彼の人生に重ねあわせて観たわけでもないからだ。
だから、「叫び」の背景がノルウェーのフィヨルドの空だなんて、
美術の先生も教えてくれなかった気がする。
フィヨルドについては、別の観点から知識が有った。
簡単にいうと、リアス式海岸だけど、その複雑に入り組んだ地形は
北極圏の氷河が長い歳月をかけて作り上げたもの。
そしてフィヨルドの海は、北極圏だが唯一凍ることはなく芳醇な海である。
世界最大の海流、メキシコ湾流(暖流)のお陰だ。
ここで鯨は冬の間、餌をタップリ摂り、脂肪を一杯にして春を迎える。
「叫び」で叫んでいるのは描かれた人物ではない。
フィヨルドの自然を貫く果てしない叫びに、怖れ慄き耳を塞いでいる姿を描いたもの。
ムンクはこの絵を発表した時、評論家たちに酷評されたらしい。
が、後に高く評価されるようになったという。
評論家は、あてにならない…そういうことか。
絵の世界ではよく聞く話だ。
他人にとやかく言われても、必要以上に気にすることはない…ということか。
では。