和顔愛語(わげんあいご)という語句に初めて会ったのは、
28年前、博多で開催した九州7県JA葬祭合同研修会の司会講師として呼ばれた時だ。
その頃は俳優業を辞めたばかりで、まだ会社を立ち上げてもいなかった。
次の仕事をどうするかと色々模索していたら、或る方が、
福岡出身で現在は東京で葬儀の司会などに詳しい者がいる、とご紹介下さった。
全くのフリーだった私は、帰省を兼ねてお受けした仕事である。
その時の講座がキッカケとなり、紆余曲折があったが現在に至る。
この講座の時、接客でいらした講師が「和顔愛語」と黒板に大書された。
字面が良いなあ、と心に残っていたが、彼女の講座は一切忘れてしまった
私はオブザーバーとして他の方の講座を見学していたのだが、
その目的は、当時は珍しい「エンバーミングの処置ビデオ」を見たかったのだ。
今思えば、この時のJAの講座は相当進んでいたようだ。
話しを元に戻そう。
接客の講師が大書した「和顔愛語」という言葉、後に出会うことになる。
10年程前、中央仏教学院(本願寺派の学校)の僧侶コースで浄土三部経を学んだ。
浄土三部経は、浄土真宗本願寺派の聖典とされるが、具体的には
阿弥陀経(1巻)・観無量寿経(1巻)・無量寿経(2巻)である。
この中の無量寿経にその言葉はあった。
もしかすると、あの時接客の講師をされた方は、寺族ではないか。
今となっては名刺交換もしていないので…まだ私に名刺がなかったので…分からない。

(事務所に飾ってあります)
改めて「和顔愛語」を味わうと、なかなか良い言葉だ。
「和顔愛語 先意承問(わげん・あいご せんい・じょうもん)」と続く言葉で、
「穏やかな態度と慈しみの言葉で、相手の想いを先に受けとめる」
これが仏教の実践の一つであると言われた。
現在は現場に出なくなったが、それでも色々な僧侶のお話を耳にします。
「和顔愛語 先意承問」とは、正反対の僧侶のお話を聞かされることが多々あります。
人間ですからね、なかなか実践できないのは分かりますが…
そのような態度を続けていると、やがて人は去り、孤立するのでは?
と、偉そうに人のことを言う前に自分が実践しなければいけません。
「和顔愛語」
ということで、還暦を迎える来年のテーマが決まりました。
皆様、良いお年をお迎えください。