死は実に様々。
人は生まれてくる環境など一切選べない。
そして死ぬときも、事件や自己など想定外であるケースではどうしようもない。
しかし、ごく普通の死であれば、多少の環境は選べる。
死を見送る側も、その年代…幼少期・子供時代・青年時代・大人になってなど、
その時々で、また死に行く人との関係性においても全てが違ってくる。
千人の死あれば、千通りの見送り方があるはずだ。
私は11歳と2ヶ月で、突然父を見送った。
そのショックは、私の人間性にも影響を及ぼしているだろうが、
母がいないことも重なり、癒えることのない長い年月には心底参った。
もうこの歳になればなんてことはないが…

さて、放送作家の鈴木おさむ氏が、週刊朝日に「父の死」について記述している。
ここにも、リアルな死があり、本当に人それぞれだなあ、と思う。
以下、週刊朝日より
放送作家 鈴木おさむ氏 「父の死」より
「人の死との距離感のつくり方」について。

父が亡くなり、あっという間に四十九日の法要を迎えた。
医者から「あと2カ月」と余命宣告を受けたとき、母はそのことを父には言いませんでした。亡くなる1カ月ほど前。僕は妻と息子と父の病室に行った。病室に入ると、父はかなり体がむくんで、痛いと言っていた。父は「もうちょっとしたら家に帰れるよ」と言っていた。本気で言っていたと思う。
そもそも、余命宣告の話は母が僕らに「絶対に言うな」と言ったはずだった。だが、母が小声で妻に「このフロアはね、重篤患者ばっかり」と言っていた。絶対、父に聞こえていたと思う。その状況に思わず笑いそうになる。しかも、父の死んだ後のことを考えなきゃならない母は、葬儀屋さんに電話していた。予約……という言葉はふさわしくはないと思うが、準備しなくてはならない。それはいいのだが、母は忘れていた。実家の電話にかかってきた電話が、父の携帯に転送されてしまうことを。母はそれに気づき、「まずい!」と思って、葬儀屋さんに連絡を入れたのだとか。母は、父のいないところで、僕にそれを話す。明るく。
父とともに3年近く病と闘い、時には、父の病状が悪化したと泣いて電話してきたこともあった母だったが、死が近づくにつれ、自分の中で受け止めていったのだろう。そのころの母と父の死への距離感には、悲しみを超えた部分での明るさもまじっていて、僕はそこに安心したりもした。
亡くなる1週間ほど前。家族で父のお見舞い。その数日前、父は、家に帰る、とかわがままを言いだしたらしい。母はもう限界だと思い、担当医の先生に頼んで、父に本当の状況を伝えてもらった。「自分の限界」を知った父。おそらく薄々気づいていたはずだが、それを聞いた父は、静かになり、病院にいる、と母に伝えたという。死を受け止めたのだ。
僕と妻と息子と病室に入ると父はいつもと変わらない。帰り、僕だけ荷物を取りに病室に戻ると、母はおらず、父だけだった。妻は病院の前に車をつけて、待ってくれていた。病院の1階にはカフェがあり、僕は荷物を取ったら、カフェでカフェオレを買って車に戻ろうと思っていた。
病室に入ると、父は、動かすのがしんどいはずの体を起こして、僕に言った。「今までありがとうございました」と。「あと数日だと思う」と。
感謝の言葉と、これからのことを伝えて深々と頭を下げた。僕は涙をこらえていたのだが、病室を出た瞬間、涙が溢れてしまった。エレベーターに乗り、涙を拭きながら車に向かったのだが、自然と足はカフェに向かい、しっかりとカフェオレを買ってしまう自分がいた。
そのときの自分を振り返り、リアルだなーと思う。ドラマだったら絶対カフェには寄らないものな。でも、それが現実でそれが人間だなと思う。みんな誰かが亡くなるときには、その人の死との距離感をつくりながら、生きていく。悲しみの中にも一滴の笑いや喜びや欲は必要なのだ。
以上。
とてもリアルだ。
ただ、千通りの死に千通りの見送り方があるように、私のケースとは違う。
私の場合、悲しみの中にも一滴の笑いや喜びや欲…そんなものは存在しなかった。
それがあれば、そんな余裕があれば、それはそれで羨ましいと思う。
その余裕はどこから来るのか。
やはり闘病する、あるいは家族で看病するなど、見送るそれぞれの人が、
死に行く人に掛けた大切な時間があるのだ。
そういう葛藤した濃い時間が生み出してくれるのだろうか。
想像するにそういうことなんだろう。
本当に死は様々だ。