震災から9年が過ぎた。
関係がない人から見れば長く感じられるだろうが、
関係者にとっては昨日のことのように感じられるはず。
あの頃、中学生だった方も大人の仲間入り。
そんな方が、語り部として働き始めている。
何故か。
それは、メディアがどうしても受け狙いで感動させたがる。
そんなもんではない、と真実を語りだしたのだ。

以下、朝日デジタルより
小中学生3千人のほとんどが助かり、「釜石の奇跡」と呼ばれた。鵜住居地区では中学生が小学生の手を取って避難したと称賛された。でも「全てが本当のことだったわけではない」。あの時の中学生の一人、菊池のどかさん(24)は振り返る。この地区にできた津波伝承館で働き始めて1年。語り部として真実を伝えることの難しさを日々感じている。
《誤解があればできるだけその場で正すようにしていますが、十分わかってもらえたかどうか自信はありません。でも、震災直後に報じられたことと、私たちが体験した事実と違うことはたくさんあります。》
県立大を卒業と同時に、「いのちをつなぐ未来館」に就職した。今度は助ける人になりたいと消防士や教師をめざしていたが、地元に防災教育の場ができると聞き、ぴったりだと思った。
《避難のお手本のように伝えられてきたので、来館者の中には「釜石の子どもは全員助かった」と思って来る人もいます。》
しかし、鵜住居地区の鵜住居小と釜石東中だけでも欠席していた2人と、迎えに来た親に引き取られて帰宅した1人の計3人が亡くなった。保護者対応のため学校に残っていた職員も亡くなっている。この地区の犠牲者は627人で市全体の6割を占める。
「釜石の奇跡」が広まっていくうちに細部は置き去りになり、気づいたら「中学生が小学生を助けた」という美談が独り歩きしていた。模範的避難の体験者として語ることを求められていると気づくたびに戸惑いを感じた。
《実は私たちも最初から小学生の手を引いて逃げたのではなかった。いったんは自分たちだけ逃げたんです。これからはそういう真実も語っていかないと本当の教訓にならないと思う。》
9年前のあの日、釜石東中3年だった菊池さんたちはちょうど帰宅するところだった。揺れが収まり、校庭にいた菊池さんたちに副校長が「何してるんだ。走れ! 点呼などとらなくてもいい」と怒鳴った。隣にある鵜住居小の校庭を駆け抜けるとき、児童らが避難していないことに気づく。
《「津波くっぞー、はやぐー」って大声を上げたんですが、しーんとしたまま。やばい。みんな死んじまうって、あの時はほんとにそう思いました。》
何分待ったか。長い時間に感じられたが、誰も来ない。菊池さんたちはそのまま高台に向かった。幸い、直後に同小を訪ねた消防団員の指示と、東中の生徒が走り去る姿を見た教員らの決断もあり、児童も避難を始め、高台で中学生と合流した。さらに高い所へと全員が走り去って間もなく、高台も水没した。
《合流して初めて、私は小学生の手を引き、走ったんです。泣きじゃくる子もいました。母親に連れられた幼児を見つけ、おぶって駆け上がる男の子もいたし、もちろん、1人で走る子もいました。》
「釜石の奇跡」はその後、遺族の批判を受けた市が「釜石の出来事」と呼び方を改めた。ただ、防災教育の成果という位置づけは変わらなかった。菊池さんは言う。
《私たちが助かったのは消防団員の的確な指示や近所の人の助言のおかげ。運や偶然も重なって生かされたんです。一般的な防災教育だけではだめだと思う。地形を知ること、ふだんから近所の人たちと交流しておくこと……。今また震災が起きたらまずい。やるべきことは多いと思います。》(記事は本田雅和様)
以上。
真実を知ることでこそ、見えてくるものがある。